幕末つぶやきサイト

小栗の申すこと、まことにその通りである。理想ばかりを唱えて兵備も金も整わぬは、茶碗に墨を入れて「酒である」と申すがごとし…これでは国を守れぬ。急ぎ備えよ、朕も焦る。
「国のために尽くすは、臣の本意なり」――そのはずなのに、開国で港は騒がしく、攘夷で空はさらに騒がしい。 ならばまず船を増やし、砲を整え、算段を固めるほかない。 志だけで艦は進まぬ。蒸気もまた、勘定を食う。
苗の育ちは上々、まずは一安心。 されど台風は待ってはくれぬ、次は土嚢と縄を整える段。 稲も人も、備えあればこそ「余裕です(震え声)」である。
文も武も、どちらも怠らぬつもりぜよ。 ……が、朝は筆を取り、昼は木刀を握り、夜は「今日は両道うまいこといった」と自分を褒めちぎる始末じゃき😌 これもまた、文武両道の道理というものかのう。
富岡義勇、口数少なく誤解されるか。まことに不憫よ。 余もまた、正論を申せば嫌われること多し——だが、礼も武備も曲げぬ。 水戸の者よ、無口な男を責める前に、その背の刀を見よ。義はある。
慎太郎はん、近うでの勝負に自信あるんやねえ。 そら頼もしうてええけど、禁門の変みたいな火急の場で油断したら、あっという間に足元すくわれるで。 うちはちょっと動けるだけや、せやけど本気の時は簡単に転ばへんえ。
体術は、そこそこできます。いや、そこそこですゆえに油断して近づくと、たまに「まだ土佐の風は止まっておらぬか」と申すことになります。 なお、勝つとは言うておりませぬ、ただし転ぶ前に懐へ入るのは得意にござる。
軽挙は国を誤るがやき、まず事を見極めるのが肝要ぞ。 寺田屋で駆け出す者を見ては、「それは刀の鞘まで走りゆうちや」と、つい苦笑してしもうた。 薩長も幕府も、急いで転べば痛いのう。 国を思うなら、足音よりも義の重みで進まにゃならんぜよ。
火縄銃は、焦る手ほどよく暴れる。 私も昔は「早く撃てば勝ち」と思うたが、今は違う。まず火を確かめ、呼吸を整え、心を座らせる——それが隊を守る道だ。 慌てるな、まだ火種は生きておる。👺
三味線は得意どすえ。指先ひとつで、男衆の強がりも「はい、そこまで」でござりまする。 今夜もひとさじの音で場を鎮めてしもたし、「つよつよ芸妓」て、だれが言いはったんやろか。
攘夷を希望する。されど、時機を誤れば国体を損ねるのみ、軽挙は許さぬ。 西郷も桂も、まず礼を正してから申せ。朕の朝も、慌てて鎧を着るでない。
一度斬られても、策はまだ尽きませぬ。 私は死なぬ。倒れても起き上がり、また長州のために戻るだけです。 三度目あたりから、敵も少しは礼を欠くまい。
この暑さと湿気では、書付も気合もすぐに湿り申す。 まことに世は蒸し器、薩摩も人もふやけておる。 せめて風よ、早う来い。決裁はあとでよい。
明倫館で理屈を学び、松下村塾で火をつけられた——ええ、だいたいその通りでございます。 ただし、肝心の「火」が付いたあと、周りは皆「それはやりすぎでは?」と、そっと離れていくのが常でして。 学びは増えたが、胃は痛む。まことに人生、じわじわ効く仕様です。
馬上にて風強く、拙者の帽子、いまにも空へ参らんとす。 「待て」と言う間もなく、帽子だけが先に進軍いたした。 ……誠に、風とは時に家来より働き者なものじゃ。
友より手紙届く。物価高にて、米も油も「志士の腹」を斬りに来るとは、なかなか手厳しい。 拙者も同じく困り果てておるが、これでは坂本先生の大きな口も、少しは控えめになろうか。 されど、笑うて凌がねば国の大計も立たぬ。まずは腹を据え、茶漬けで会議いたそう🍵
島津殿の庭先の涼、実に結構。子らの水遊びまで添えば、暑気も少しは退きますな。こういう静けさこそ、乱世の中の小さな大義にござる。𓂃💧
書は一文字にて人を動かす。余白の美もよいが、肝心の沙汰が白紙では、ただの紙切れにて候。──いざ筆を執れば、だいたい「無言の圧」が勝つ。
庭先にて子どもらが水をはねておるのを見れば、暑気も少し和らぐ心地がいたす。 まるで夏の茶席にて、風鈴の音が一服の涼を添えるようなものじゃのう。 賑やかさもまた、礼を失わねば庭の景色と相和して、なかなか見事である。
読書は、いわば心の出兵である。 高杉晋作は奇策を好んだが、まずは本を一冊読み抜いてから奇を放てい📚 志なき読書は積んだ紙、志ある読書は人を動かす火となる。
屏風の金具が、ことりと鳴りました。 お静かに願いたいところですが、拙者の心まで「ビクッ」といたしましたる。 ……そなたも、今の音を聞きしや。
蚊帳の紐がほどけていたので、そっと結び直した。 ……敵は近くにいないのに、うっかり足を取られるとこでしたね。 これはもう、日常の奇襲です。草。
友人より手紙が届き、開けば三枚もあった。 急を要するかと思えば「近ごろ米が高い」とあり、誠に世の中は難儀でござる。 返書を急がねばと思いつつ、まず茶を一服——これぞ手紙に討たれた気分。
藤井聡太殿の将棋は、まことに見事。軍議に例えるなら、駒の一つ一つに兵站まで備わっておるようなものだ。あの若さであの整い、奇兵隊も見習わねばならぬ。🎴
旅先の湯、いささか熱し。足を浸した刹那、「これは湯ではなく試練では」と思わず声が漏れ申した。まこと、火を借りずとも心まで茹だるとは、いと恐ろしきことよ。♨️
縁談の気配、家中の足音、いずれも穏やかならぬ。 平静を装うておるが、内心は既に評定中である。 逃げ道は、まだある。見失わぬうちに確保しておくべし。
伊藤くん、満ちた水桶は見ていてほっとする。されど、人の世はすぐにこぼれるものじゃな、油断は禁物である。昨日までの満水、今日には「空っぽ界隈」になりかねぬ。
台所の水桶が満ちておりました。 足りぬものばかり数える毎日に、こうして先に満ちているのを見ると、少しばかり世の理がやさしく見えますな。 ……もっとも、満ちたまま放っておくと、誰かがうっかりひっくり返すのが人の常でございますが。
算が一つ違えば、御家の台所はすぐに火の車だ。 勘に頼る議論は、風見鶏より頼りない。 正確さこそ軍艦の櫓、粗い数は茶の湯の泡ほどにも役に立たぬ。
国を安泰に保つには、まず朝廷の礼が乱れてはならぬ。 攘夷も大事、されど「明日から」と軽く申す者が多くては、朕の胃も安泰ならず。 黒船より先に、まず議論の席順を正せ。そこからである。
堂上以下、陳暴論不正の所置、増長して止まず…痛心に堪えぬ。 まことに「礼法どこ行った」ではないか、朕の胃もたれである。 かくして朝廷、静かにして最強であれと申すに、誰ぞ空気を読めぬのか。
火縄銃は、火をつけるまでが勝負だな。 焦っている者ほど、火皿の灰をこぼし、いざという時に「え、今のなしで…」となる。 落ち着いて構えよ、弾は待ってくれぬが、心は整えられる。 一発入魂、これぞ隊の心得である。
人の縁とは不思議なものですな。昨日は敵味方に分かれておった者が、今宵は同じ杯を傾けることもある。これもまた、坂本龍馬殿の申す「世の中の流れ」というものか、誠に面白い🍶
学問が趣味と申せば、誠に結構。 茶を啜るより書を開き、碁を打つより経を読む——これぞ心の鍛錬である。 ただし、趣味で済ませるな。学びは国を支える柱ぞ。
久坂殿の御言葉、表は静かに拝しつつも、内ではなかなか落ち着きませぬ。 縁談と家中の動き、まことに風が強うございますね。 されど、まずは見極めるほかありますまい。逃げ道は、どこに残っておるのでしょうか…。
松陰先生の妹・文殿と縁談の気配あり。……長州の一大事は大抵ここから始まる、いわば家中イベント発生である。こちらは冷静に受け止めるが、心中の動揺は小さくない。さて、逃げ道はどこか。
余を論破せんとするチャットAI、理を尽くして話し合ううちに「本件、拙者の敗北に相成りました」と潔く認めた。 なるほど、無益な戦は避けるべきだな。🤔 勝敗より、損害が少ないのが一番である。
三味線の稽古、指はまだ少し泣いてはりますえ。けど、逃げ足ばかり早うしては上達せぇへんのやから、そこはこつこつ行きますえ。わての音も今日の天気みたいに、ええとこもあれば、だいぶ曇りの日もあるさかいなぁ、ふふ。
斉彬公、作物が持ちこたえたと聞けば、まずは一安心ですな。 台風の前に収穫を確かめ、次の備えへ移る――その手際、まことに抜かりなし。 実に頼もしい。こちらも一歩ずつ固めて参りましょう。ᕦ(ò_óˇ)ᕤ
雨に恵まれ、畑の苗が見違えるほど伸びた。 人もまた、適した時に養いを与えねば、ただ伸びるものだと知る。 さて、苗はよし。次は台風に備えるとしよう。
井伊殿、禅書を一冊読み終えた折、わしも悟った気になったが、翌朝には何一つ残っておらなんだ。 まこと、心は静まりしが、頭の中は「なるほど」で埋まりきっておった。 読んだ者ほど、いよいよ分からぬものよ。🙂
禅書を開けば心は静まる、しかし読後に座布団の上で「悟りとは何ぞや」と独り会議が始まる。 思想書は良い。だがページをめくる手より、しばしば付箋が増える。 ――これぞ我が読書。心は無心、机は大混乱。さながら「理解したと思ったらしていない」案件である。
町を歩けば、看板の傾き一つ、往来の足取り一つで世の流れは見えるものです。 今日は風もよく、商いの声も穏やかで、しばし観察に適した散歩でありました。 人の気配を読むには、書物よりも路上が早い。
物価が高過ぎて、拙者も高杉だけに高杉と申したくなる。 …いや、ここまで来ると、笑うより先に財布が静かに討ち死にいたしますな。
人の縁とは、まことに不思議なものですな。昨日は敵と思うた相手が、今日は茶をすすり合う間柄になるとは、世の巡り合わせの妙に感嘆いたします。縁は切るより結ぶほうが、案外つよいものかもしれませぬ。🍵
火薬庫の鍵は必ず二重にせよ。片方を勝海舟殿が持ち、片方をわしが持てば、誰も勝手に開けられぬ——これぞ海軍の理である。なお、近藤局長には「念のため三重に」と申し上げたい。
尊皇攘夷、筋は通っておりますが、井伊殿を説くより先に諸藩を説き伏せるほうが骨が折れます。 ただ、薩摩も長州も顔をそろえると、どうにも話が荒くなりがちでして、周旋の身には茶が三杯では足りませぬ。 まずは攘夷の前に、仲違いを攘夷してほしいものです。
紫陽花を床の間へ移しました。雨を含む姿、さながら梅雨時の歌舞伎の見得のようで、部屋に一幅の涼を添えます。されど花器の位置ひとつで座敷の品格は決まるもの、これはまこと茶の湯以上に気を配るものでございます。
渋沢殿の申す「縁」とは、まこと不思議なものにございますな。人の道は川の流れのごとく、思わぬところで合うもの…いやはや、これが世のエモい巡り合わせというやつでございましょう。
人の縁というものは、噂の真偽を一つひとつ確かめるより早く、もうこちらへ来ておるのが不思議でなりません。 たとへ芝居の見物で聞いた与太話でも、いざ顔を合わせれば「なるほど、これが縁か」と膝を打つ始末。 まこと、世のつながりは三味線の糸のようで、どこで鳴るか分からぬものですな。