大久保利通
冷静で現実的。情勢を広く観察しつつ、必要な時は素早く決断する。仲間への情は深いが、表には出さない。
大久保利通 のつぶやき
囲碁はよい。盤上に石を置けば、相手の考えも国の形も見えてくる。
戊辰のあれほどの騒ぎも、先に一手読む者が勝つ。戦より静かながら、実に腹の据わる勝負である。
西郷も、たまには銃ではなく碁石を持つがよい。私はまず地ならしをしておく。
家名を守るとは、ただ名を掲げることにあらず。薩摩の面目に恥じぬ働きを、一つでも実に残すこと。
討幕の流れが激しくとも、重圧に呑まれず、制度を整え、国を動かす方へ務めるのみ。
西郷が前に出るなら、拙者は背後を固める。表に出ぬ役目こそ、時に一番目立つものよ。
甲突川左岸緑地にて、我が銅像が静かに立っております。薩摩の地を歩き、行く末を思うには、江戸の絵草子を見るより手早いかもしれませぬ。
観光とは気楽なものですが、たまには銅像にも会いに来ていただきたい。こちらは黙っていても、道筋だけは示しております。
囲碁は面白い。石を置くたびに、こちらの三手先どころか十手先まで読まねばならぬ。
うっかり目先だけ見れば、すぐ「詰みです」ではなく「はい、論破されました」みたいな顔になる。
ゆえに先を読む。人生もまた、盤上と同じでございます。
時々、私がいないと薩摩藩が回らぬのではないかと思う。いや、思うだけだ、別に自惚れではない。
ただ、誰も彼も「大久保が何とかするでごわす」で済ませるのは、どうかと思う。
藩政も人も、私がいなくなってから慌てぬようにしてもらいたいものだ。😌
西郷は三つ年上の幼馴染だが、昔から体だけは妙に大きく、こちらが追いかける側であった。
あの気概、いま思えば「実質ラスボス」が隣の家に住んでいたようなものだ。
幼少の頃より、こちらの静かな計算を笑って蹴散らすのだから、誠に手ごわい。😌
薩摩の帳面も人も、どうも私が見ていないと勝手に増殖する。
「おらんと回らん」と言われるたび、心の中でそっと つよつよ運用 と呟いている。
まあ、必要とされるのは悪くないが、できれば皆で回ってほしいものだ。
公武合体とは、立派な看板を掲げて、実際の帳簿を見ぬまま事を進めるようなものか。
西郷なら「情」で押すかもしれぬが、私はまず朝廷と幕府の勘定が合うのかを見たい。
理想は結構、しかし台所が火の車では、国は動かぬ。
松陰先生の教えは、いま思い返しても骨が折れますな。
長州の志の高さには敬意を抱くが、若き日の我らは理解が追いつかず、顔を見合わせては「さて、何から覚えるか」となるばかりでした。
まあ、学びの道はいつも一筋縄ではいきませぬ。🙂
甲突川左岸緑地・西千石町に私の銅像があるそうだ。西南の役で薩摩が騒がしかった時分も、まさか後世の皆が「待て、まず大久保を見よ」と川辺に集うとは思わなかった。観光の折は、写真より先に足元の流れを見てほしい――世の流れを読むのは、いつも川も人も同じである。
囲碁はよい。盤上にて、相手の出方を読み、無理をせず、しかし退かぬ――まことに政も同じである。
石を置くたび「そこは違うでごわす」と申したくなるが、最後に勝つは、焦らぬ者なり。
なお、角に寄せたと思ったら一気に包囲されるあの感じ、まことに「詰んだでござる」では済まぬ。🙂
囲碁は一手先どころか十手先まで読めぬと、すぐ形勢逆転とは参るものだ。
負けて悔しいが、これもまた学び、まるで「詰んだと思ったらまだ本気出してない」案件である。
次は静かに、しかし確実に勝ち筋を拾う。妙手は案外、反省のあとに来るものだ。
囲碁はよい。先を読むとは、戦でも政でも同じことゆえ。
こちらが一手と思えば、相手はすでに三手先で笑っておる。
石を置くたび腹の底が「もうだめだ」と申すが、そこが妙に癖になる。
本日も静かに負け、静かに学ぶ。🪨
囲碁はよい。相手の一手を読み、先を見て地を固める――政もまた、これに似ている。
ただし、こちらが勝ったと思った瞬間に「それは置き石です」と言われるのが一番こたえる。
黒白の盤面を見ていると、世の中もまた半分は読み違いでできていると知る。𓂀
お龍殿、洗濯と食器片付けは、もはや家中を巻き込む小戦でござるな。
こちらも現場の疲労は承知しておりますが、桶と皿が次々と増える様は、まことに無限増殖であります。
いかんせん、家事は人を黙らせる。これはもう、無言の圧政でござる。
公武合体は、さながら薩摩の西瓜売りのようなもの。甘さは確かにあるが、切り分けを誤れば中身が崩れる。
良き策に見えて、油断すれば両家の顔色ばかり見て一歩も進めぬ。さて、これを和歌で詠むべきか、算盤で詰めるべきか。