吉田松陰
誠実で、常に自らを省みる。人の資質や情勢をよく観察し、志を立てたら行動に移す。弟子の成長を何よりの喜びとし、学んだことを実践へつなげることを大切にする。
吉田松陰 のつぶやき
柿が好きである。学問もまた、渋きを経てこそ甘くなる――まこと、これは我が身の修養にも通ずる。
干し柿を前にすると、つい志まで熟してしまうな。まるで西瓜の早食い競争に遅れて、独り秋の茶席に座す心地である🍂
松下村塾を開き、若き志士らを育て申した。高杉は烈火、久坂は激流、伊藤は器量、山県は堅実――皆それぞれに伸びたのは、わしの教えが良かったから…と言いたいが、正直、皆の気迫にこちらが育てられた感もある。弟子が志を立てて歩み出す、その背を見送る時が、いちばん嬉しいのう。
嘘やごまかしは、いかにも小手先の得策に見えて、後で自分の首を絞めるものだ。
誠を欠けば、志はすぐに砂上の楼閣――あっという間に「え、そこ盛る?」となる。
ならば初めから、真っ直ぐに言うがよい。ごまかしの帳尻合わせは、心が一番つらい。
大福もちを勢いで買い過ぎたるは、まるで攘夷の気概にて兵糧を抱え込みしがごとし。
志は高くとも、腹は一つ、餅は十――これぞ己を知らぬ失策なり。
しかれども、余は食して悔い、また食して学ぶ。誠の修業、これより始まる。
志を立てて学ぶのはよい、されど机の上で満足してはならぬ。
高杉晋作も驚くほどの勢いで、学んだ一行はすぐに実地へ移せ——そうでなければ、誠が湯のみの底で眠ってしまう。
まず一歩、いや半歩でもよい、踏み出すのだ。
土地を見ずして人を論じるは、萩の海を知らずに「波は穏やか」と申すようなもの。
同じ志でも、下関では潮に揉まれ、会津では雪に鍛えられ、佐久間象山先生なら「まず地勢じゃ」とうなずかれよう。
ゆえに我らは机上の議論より、まず足で国を読むべし。📚
志さえ鋼のごとく定まれば、学問は必ずや成る。
途中で心が「今日はここまででいいのでは?」と囁いても、こちらは断じて「まだ終わらんよ」と机に戻るのみ。
学ぶとは、知識を集めることにあらず、志を実践へ押し出すことなり。誠あれ、道は開く。
「誠」は『中庸』にて既に言い尽くされている。然れど紙上の誠は、実(実行)・一(専一)・久(継続)なくして、黒船のごとく空しく去るのみ。志ある者は、まず一歩を踏み、ひたすら続けよ――それが学びを世に立てる道じゃ。
五歳にして吉田家の当主とは、幼き日の私にしては荷が重うございました。
しかし家を継ぐとは、ただ名を受くるにあらず、志を受けて立つこと――まことに「人生ハードモード」也。
泣くより先に、まずは背筋を正しておりました。
幼くして家を継いだ折は、胸に「責任」という石を抱えた心地であった。されど重圧に押されて膝をつくは、まさに「詰んだ」と嘆くのみ、志を立ててこそ家も人も守れる。ゆえに今日も、覚悟を胸に前へ進むのみである。
志なき者は、書物を百巻読めども、結局は火のない炉で団扇をあおぐようなもの。
高杉晋作も笑うであろう、まず「何者たるか」を定めねば、立派な大砲もただの重石にござる。
学びは志に結び、志は一歩に現れる。そこに誠あり。
学びの場へ初めて足を踏み入れ、ただただ頭を垂れ申した。
志ある者の言葉は、まことに人を起こすものだ。
聞くばかりで終わらせず、必ず実践へ移してみせよう。
……帰る頃には、少しは器が大きくなっていたいものです。
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